ペットボトルのプシュ音は、どこまでいっても結局は想定内の音で終わることが多いです。
自らが挨拶をして、若しくは喋りかけて、每回、氣の抜けた炭酸水みたいでもいいから返事をして欲しい靈止なんて、そうそういませんが、粘着質に取り敢えず形だけでも求めるタイプの靈止もいるにはいるのです。
社会人だから?
家族だから?
恋人だから?
そんなに想定内の枠組みの中に押し込められたり、自分もそうだからと他人を押し込めたりするのが、心地良い?
苦しくない?
簡單に言うと、世間一般はこうであろう、だから、こうあるべきだと取り敢えずを求める靈止です。
取り敢えずの結果を求め、和多志からしたら寧ろ結果ダメになる行動だとしても、決まり切った思考、行動しかできないタイプの靈止というのは、いつも、ベクトルが他人に向かっていて、他人にアピールベースできっと(ペットボトルの商品の品質が一定で裏切らないなように、他人にも同じ在り方を求め、誰一人として同じ靈の靈止がいない他人にでさえ、商品をレジに通し、一定のお金さえ払えば対価として返ってくるように錯覺して)OKだろう(思考停止で世間、一般常識でこれさえしておけばOKだろう)となる場合が殆どです。
和多志のような拘りの塊、開けようとしてもなかなか開かないコルクのシャンパンみたいな精神の持ち主は、そのタイプの靈止が2000回生まれ変わったとしても、良くなる見込みがない(殻を破れない、破・常識が成長だなんて一生かけても頭によぎることすらない)ので関わるのをやめておこうとする狀態が永遠に続きます。
レジを通さなくたって、物や氣持ちの受け渡しは出来るし、普段仏頂面でもサプライズのことを考え一人でニヤニヤしてみんなの前で驚かせてあげたい靈止だっているし、畑で採れた野菜も食べきれないから新鮮な狀態で喜んで貰いたい氣持ちで配りたい靈止だっています。
和多志は、心開く相手には、シャンパンのポンという響きで仕合せのメーターが満たされるまで、勿論それを演出する和多志も満たされるまで、祝福モードでいたいのです。
それは細胞一つ一つに永遠に刻まみ込まれる振動、心地良さとなり、ふわふわの雲を見て、ついつい綿菓子を連想してしまうような狀態になってしまうのです。
誰だって、決まり切ったプシュ音よりも、もっと本質的な身体喜ぶ祝福の瀧(シャンパンコールとシャンパンタワー)を浴びて、氣枯れた(決まり切った日常に疲れた)狀態から、水も弾くフレッシュな狀態になりたいというか、でいたいのです。
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